徒然草

エッセイ集と時々ちがうの

当たり前

最近、美人だなあと思う人は美に対してかなり努力をしているということに気づいた。

みんな「何もしてないよ〜(><)」と言うからこう見えても正直者のわたしは鵜呑みにしてしまった。そしてポテンシャルの差だと思って諦めたりしていたわけである。でも、何もしていないという言葉には「特別なことは」何もしていないという隠れた接頭辞がついているのだ。当たり前だと思っていることは言及されない。
 
わたしは普段自分のことを頭がいいと思うことは全然ないしむしろ自分の頭の悪さに辟易しているが、まあ世間的に見れば学歴はいい方だと言える。中学受験をして私立の中高一貫校に入り、それから基本的なコミュニティは学校と塾だけだった。つまり中学生になって以降しばらくは学力的な面や育った環境の「当たり前」がある程度以上共通している人とばかり接してきたことになる。そうなるとつい狭い世界での当たり前が世界全体の当たり前のような気がしてきてしまうものだ。
しかしわたしは高校時代にアイドルヲタクとして出会った友人たちや大学に入ってからのバイト先で今まで出会うことのなかった全く違う世界の人たちと出会うことになった。たとえば、はじめて同世代で中卒の人・通信制高校に通う人・高卒で就職する人と友達になった。当時のわたしの中では中学校の次には高校があって卒業したら大学に行く、という流れはもう疑う余地もない「当たり前」になっていた。そしてバイト先では研修中にドリンクを教わっている時に、ものすごく仕事ができる先輩のNさんが日本酒の名前である都錦(みやこにしき)という漢字が読めないことにカルチャーショックを受けた。
 
「当たり前」なんてそんなものだ。だから、わたしのようなズボラからしたらものすごい努力に思えることも美人たちにとって当たり前のことで何も特別じゃなければ、何もしてないと答えるのは当然のことだ。美人たちは別に意地悪で美しさの秘訣を内緒にしようとかそういうつもりは全くないのだ、おそらく。スキンケアは化粧水で終わり!お化粧はしない!が当たり前の人もいれば、美容液にこだわって月2でピーリングして月1美容点滴みたいな生活が当たり前の人もいる。別に美人になることが全てなわけじゃないし、どちらが正しいわけでも間違ってるわけでもないと思う。だけどズボラなわたしがちょっとでも美人と思われたいならその努力を当たり前だと思えない分意識的に努力していくしかないのだ。とりあえず髪の毛を乾かして寝ることを当たり前にしようと思う。