徒然草

エッセイ集と時々ちがうの

ケイオウちゃん

突然ですが私は某KO大学に通っています。バイト先の社員さんや常連さん、美容室のお兄さん、近所のカフェで出会った人、大学生になってから出会った人たちの一部は私のことを「ケイオウちゃん」と呼びます。きっと相手からしたら「ケイオウなんてすごい!珍しい!」みたいな単純なプラスの気持ちでそう呼ぼうと思ってくれたのでしょうが、当初私はこの呼び名がなんとなくいい気持ちがしないうえにしっくりこないと思っていました。おそらくこれは私が自分の通う大学を誇りに思えていなかったからでしょう。世間的にまあまあすごい大学であるという認識がほとんどなかったという方がより正しいかもしれません。

私は「地方で一人暮らしをしてみたい」という理由だけで、ある地方の国立大学を第一志望としていました。しかし以前の記事でも書いた通り絶望的に数学ができず落ち、結果として第二志望としていた大学に通うことになりました。そもそも第二志望以下は日程が被らないようにほんとうに適当に選んだのでもちろん特別な対策をすることもなく、志望順位もなんとなく決めたものでした。それよりも大きかったのは高校の環境でした。私の高校は現役で毎年東大と医学部に各20〜30人ほど入るようなところで、文系で私立が第一志望の人が数えるほどしかいませんでした。冷静に考えるとものすごいですね。明らかに特殊です。しかし当時の私にはそれが当たり前であり、国立大学や医学部の受験の大変さを身近に感じていたこともあって、自分の入った「慶應文学部」はなんとなく見劣りするように感じていました。心のどこかで自分は落ちこぼれたと当時は割と本気で思っていたし、大学名を言って賞賛されることがなんだかものすごく恥ずかしく感じる時期がありました。

今はどうかいうと、ケイオウちゃんと呼ばれることもそんなに嫌ではなくなりました。大学名で自分という人間に蓋をされて中身を見てもらえていない感が少し嫌ではありますが、それよりも「それで覚えてもらえるならまあいっか、中身は知ってもらえるように自分で頑張ろう」という気持ちの方が強いです。なんなら大学名だけで第一印象すごいと思ってもらえてラッキー♪くらいに思えるようになりましたら。そもそも大学に対する愛情も芽生えてきました。通い始めてから年月が経ったことはもちろん、運良くいい友達にたくさん出会えて高校時代と同じかそれ以上に楽しい生活が送れていることの影響も大きいです。(元はと言えば高校同期たちに対する意地のようなもので大学生活をめちゃくちゃ楽しんでいるところを見せつけてやろう、みたいに思っていたのですが…)皮肉なもので中学高校時代にキリスト教的思考が染み込まされたせいか、今となっては第一志望に行かずに今の生活を送っているのも神の導きのような予定調和的なものだったような気すらしています。自分にとって武器だなんてさらさら思っていなかったものが、実は世間から見たらそこそこ強い武器だったということもあるんだと思い知らされました。